しがないマーケターの戯言

読んで学んで、物を書/描く。

父の日に思う、今は亡き父に学んだ「何かを捨てる大切さ」

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6月の第3日曜は「父の日」だ。ちょっと重めの話だが、匿名ブログなのでまあいいかと思って書いてみる。僕の父の話だ。

 

「お父さんが、亡くなったんよ。早く帰ってきて」

叔母から深夜に電話があったのは、もう6年以上も前の秋のことだ。

父は、地元で小さな会社を営んでいたが、借金などなどの問題で母から愛想をつかされ、1人で暮らしていた。そして、借金返済と孤独に追われ、亡くなった。この話を始めると、語りきれないくらいの出来事や想いが出てきてしまうが、僕は父の死から、3つのことを学ぶことになった。

何かを捨てることの必要さ

父は自分の持っているものをどれも捨てることが出来なかった。会社も、仕事のコダワリも、会社の人間関係も、母と家族も。自分の大切にしてきたものを何一つ捨てられないから、母と家族から愛想をつかされてしまった。

自己破産してでも会社をたたみ、いろんなものを清算して、ゼロからスタートすれば、母も力を貸してくれたかもしれない。もちろん、20年以上自分の力で営んだ会社をたたむことは、大きな勇気が必要なのは痛いほどよくわかる。でも、何かを捨てないと自分の大切なものを守れないことがある、ということを学んだ。

素直であることの重要さ

父の会社には、母の古くからの知人の会計士がついてくれていた。長年、地元の銀行で働いて実績をつんだ、信頼ができる人だ。その方は、父の会社に対して、根本的な財政改革を提案してくれ、支援してくれるつもりがあった。

しかし、父は耳を貸さなかった。自分が築いてきたコダワリを何も捨てることができなかった。だから借金は減ることがなく、ついには返済できなくなってしまいまった。そして、その負債の状況を家族には何一つ話さなかったし、助けを求めなかった。母親さえもいくら会社に負債があるかも知らなかった。

世間を知っていることの尊さ

父は借金まみれの会社を残し、亡くなった。どのくらいの額を、どこから借金しているのかは、父以外は誰も把握していなかった。母や叔父と一緒に会社の現状を確認するために、会社に行き、いろいろな資料を掘り出した。

そこで僕が尊敬し直したのは、一緒に行ってくれた叔父(母の妹の夫)。叔父は、地元の有名な企業で人事部長をしていたほどの真っ当な人だ。今は退職して美術館の館長なども任されている教養深い人でもある。

彼は、父が残した会社の膨大な書類の山から、決算書ともろもろの契約書を引っ張ってきて、今の会社がどういう状況にあったのかを読み取り、どのくらいの金額のどのくらいの借金があるのかを手際よく整理してくれた。そして、知り合いの弁護士に話をつけ、今後の対策(会社の処理など)を指南してくれたのだ。

僕はその頃社会人2年目で、マーケティングはかじっていたが、会計や法務の分野の知識は皆無で何もできなかった。叔父のその姿を見て、ビジネスの広い知見を持っていて、世間を知っているということは尊いことだと感じた。この経験が、MBAを学んでいる現在にもつながっている。

ただ、父に感謝していること

まるで他人事のように父のエピソードを書いてしまったが、父を救えなかったことは自分にも責任があることは自覚している。僕は大学入学以来、実家を出ていたので、近くにはいれなかったのだが、父の問題に気づきながらも、見て見ぬふりをしていた部分が少なからずあった。

そして、もちろん、そんな父にも感謝していることはある。まず、常に子ども(僕や姉)の成長のことはいつも最優先に考えてくれていたこと。借金まみれの会社を運営しながらも、子どもの学費は、文句を言わず出してくれたこと。学生時代、野球をやっていた自分をいつも応援してくれていたこと。子どもの頃にはよくバッティングセンターに連れていってくれたこと。感謝してもしきれない。

また、亡くなる直前に、母を会社の役員登録から外していたこと。会社は実質的には父のワンマン経営だったが、設立時に母は役員として登録されていた。しかし、父は亡くなる前に、母を役員から外していた。一時は、会社の負債を母が背負い、母が自己破産をしないといけないという話を弁護士と話していた。しかし、役員から外されていたことで、母とその会社は法律的にはまったく関係のないものになった。その結果、母は借金から救われた。この事実が発覚したときは、父は、堕ちても父だったと、心の底から感謝した。

父の日に、父への感謝を

はっきり言うと、僕の父は尊敬できないことが山ほどあった。今でも時々「バカ親父が」と思う。でも父の死は自分の人生に影響を与えていることは確かだ。ここで学んだことを糧に、父の分まで生きようと、誓いたい。